真空ソルファ
鼻先をかすめた細かな冷たさに、おれは反射的に空を見上げた。
さっきまで晴れていたはずの空には深く垂れこむ黒い雲。質量をもった熱気が体の自由を奪うようだった。べたつくような湿気が、ひどく息苦しい。あたりに混ざり始める、下から湧き上がるようなにおい。独特の、雨のにおい。それがひどくおれを憂鬱にさせた。
鋭い光が目尻を走って、少し遅れて低く唸る雷鳴。それを合図にしたように、白いすじが降りだした。
最初はかすかだった雨音も、だんだんと強く大きな音になっていく。傘を持っていないおれに考える暇を与える間もなく、雫は痛いほどの大粒の雨に切りかわった。
慌てて辺りを見回しても、商店街を過ぎたここには、駆け込めるような店もない。ぐずぐずしているうちに、水を含んだシャツが体に張り付きずっしりと重くなっていく。
とにかく雨をしのがないと。おれは急いでこぢんまりした家の軒先に駆け込んだ。
服にたっぷりとしみ込んだ水がどうにもできないと分かると、おれは濡れた髪の毛を顔に張りつかせたまま、ただぼんやりと空を見上げた。
さっきカフェを出た時には、抜群に青かったくせに。あの空のどこにこんなものを隠していたんだろう。全くもっていじわるだ。そう思えるほどのぶ厚い雲。そして、冷たい大量の水。
強い雨は軒下まで降りこんでくる。細かな水滴が、またおれを濡らした。波打っているように大きくなったり小さくなったりを繰り返す雨音。
まだ、当分、やみそうにない。ひとつため息をおちた。
走ってカフェに戻るには、ここではちょっと遠すぎる。
おれは観念して、力なく、その場に座り込んだ。
視点が低くなっても憂鬱な景色は変わらない。地面はあふれる水に黒く塗られて、目の前の木も家も、空も、空気でさえも、すべて灰色にけぶっている。雨粒に色を流されてしまったんだ、きっと。
モノトーンに彩度がおちてしまった世界を、見ていたくなくて、おれは、膝を抱えて目を閉じた。
どうしても雨は嫌なんだ。やっぱり雨はただひたすらにさみしい。
目をつむって水が落ちる音に包まれていると、自分がどこにいるのかさえ分からなくなってしまって、不安で、息ができなくなる。
心にぽっかり穴が開いて、自分の周りの空気が奪われていくような。
おれに、雨のたびにおとずれる、逃れられない、真空。
ふと気づくと、耳障りな雨の音の隙間に、耳の奥でピアノの音が鳴っていた。少し前にツユキがカフェで弾いてくれた曲。ぽろぽろと落ちるようなピアノの音。たまには一曲弾いてよとせがんだおれにツユキが珍しく弾いてくれたピアノの旋律だった。
いつもなら、跳ねまわるように聞こえる音のひとつひとつが、あの時は違って聞こえた。すっと地面に落ちて、溶けてしまうみたいだったんだ。
そんな音たちがつくる曲はとてもさみしくて、雨の中を一人で歩くように聞こえてしまって、ツユキには悪いけれど、どうしても苦手だと思った。でも、なのに、なぜか、まだ、忘れられないみたいなんだ。
自分を落ち着かせるように深く息を吐いて、膝を抱える手に力をこめた。
でもさ、
「真空の中じゃ音も出ないよ」誰にともなくつぶやいて、膝の間に頭をうずめた。
やっと見つけた鯨真さんは、どこかの家の軒先に、小さく膝を抱えて座り込んでいた。
びっしょり濡れたことがわかる、いつもより深みを増した赤い髪。あいかわらず、この人らしい。
鯨真さん」
切れた息を整えて、声をかけると、はっとしたように顔をあげた。髪と同じ色の赤い瞳が、驚きを映して大きくなる。
「ツユキ!」
跳ねるように立ち上がって、鯨真さんは俺を軒下に招き入れた。傘を丁寧にたたむと、たくさんの水滴が滑りおちていく。
雨足はカフェを飛び出した時よりもずいぶん落ち着いていて、軒下に入ってしまえば、もう降りこむ雨も気にしなくてもいいほどになっていた。
「おれを探しに来てくれたの?」
鯨真さんが、傘をもたないで出て行ってしまったので。よかったら、これ、どうぞ」
あいかわらず驚きを顔に張りつけたまま、鯨真さんは俺が差し出したタオルを受け取った。濡れた体に乾いた感触が気持ちいいのか、しばらくタオルに顔をうずめた後、目だけ出して俺を見た。ほっとしたように目尻がとろけている。「また、ツユキが助けに来てくれた」
「一緒にカフェに帰りましょう」
うん、とうなずく姿に元気がないように感じた。どこか鯨真さんらしくない。いつものにこにこした、飛び跳ねるような明るさが、ない。
不思議に思って顔をじっと見ていると、鯨真さんは俺の手元を見てふふ、と笑った。
「ツユキ、傘が一本しかないよ」
「え?…あ」
タオルを渡してしまった手の中には、もう俺がさしてきた傘以外、もう何もなくて、遅れて自分が何をしてしまったのか分かった。顔が一気に熱くなる。
鯨真さんの分の傘を忘れてきてしまった。これじゃ、全然意味ないじゃないか。
わざわざ迎えに来たのに、俺、何やってるんだろう。
恥ずかしさに俯いている俺を覗き込み、もう一度ふふと笑って、
「ツユキらしいな、急いでおれを迎えにきてくれたんだね」
鯨真さんは俺の傘をとりあげた。「おれが持つよ」
二人で歩き出すと雨はもう小降りになっていた。あの厚い雲だって、ため込んだ水を吐き出したいだけ吐き出したら、さっさとどこかへ去っていくのだろう。気まぐれな夏の天気。
雨粒が街路樹にぽろぽろとあたって、葉がピアノの鍵盤のようなかわいい動きをする。あれが本当に鍵盤だったらきれいな音がするだろうな。
鯨真さんがさした、ひとつの傘に入った俺たちの歩調は、お互いに合わせていたせいでとてもゆっくりになった。傘の中ではどちらとも、喋らないでいた。沈黙がベールのようにそっと、でも心に少しだけ重くかけられる。普段なら黙っていることのない鯨真さんが口をひらかないせいだった。自分から話すことの苦手な俺はいつものことだけど。
鯨真の横顔は明らかにいつもとは違っていた。何を映すわけでもなくぼんやりと遠くを見る赤い瞳。肌も青白く見える。きっと、空が曇って光が足りないせいではないだろう。
ふいに鯨真さんが立ち止った。俺も一拍遅れて止まり、鯨真さんの目線の先を追う。ひときわ大きなひまわりの葉の先から、雫がひとつ滑り落ちた。重みをなくした葉が揺れる。
ずっと黙っていた鯨真さんが口をひらいた。
「ねぇ、ツユキ。この前弾いてくれた曲ってさ、なんであんなにさみしかったのかな」
前置きのない唐突な質問だったけれど、その言葉には胸を突く真剣さがあった。
これは、簡単に返事をしてはいけない。俺は頭の中で何度もメロディーと指づかいを思い出し、丁寧に答えを探った。
「多分、黒鍵ばかりを使うからだと思います」
もうひとつ葉の先から雫がおちる。葉の表面に弾かれて、銀色の球になった水滴が、転がるように落ちていった。
「黒鍵は、さみしい音が多いので」
鯨真さんはしばらく何かを考えるような間をおいた後、「そっか」とかすかな声でつぶやいた。
見上げた横顔は通り笑っている。でも、その顔に浮かべられているのは、うすくはかないほほえみだった。頬に影を落とす、拭いきれない暗さ。こんな鯨真さんはみたことがなかった。無理矢理持ち上げているような口元に、俺の心がちりりと痛む。黒く濡れた地面を歩く足取りもどこか、重い。
再び歩き出そうとすると、ぱしゃん、と軽い音がした。目を向けると、鯨真さんの右足が水たまりに浸かっている。
思わずもれてしまったようなためいき。肺の底の一番重い空気を吐き出すような、深さ。
俺の視線に気付いたのか、鯨真さんは俺に笑いかけた。眉の下がった力のない笑い。見ている俺まで、切なくなってしまう。
「鯨真さん、」
「ごめんね」
ぽつんと落とされた声は、小雨の音にすら、かき消されてしまいそうだった。
「心配させて、ごめん。でも、おれ、どうしても雨が苦手でさ」
さみしそうに笑った顔と、足元の地面に落とされた弱々しい目線。
いつもなら、こっちが恥ずかしくなるくらい、まっすぐ目を見て話すのに。今日は一度も、鯨真さんは、俺の目を見ない。
「そういえば、ツユキと初めて会ったのも、雨の日だったね」
「そうでしたね」
しっとりとした声に息が詰まった。けぶる小雨の中で、鯨真さんの輪郭がぼやける気さえした。それくらい、危うい。
話を切ってしまえば、また、鯨真さんはさみしく笑うだけになってしまいそうで、
「あの日、どうして大けがしてたんですか?」
必死さがばれないように何気なく、でも必死に言葉をつなげる。
うーん、と困ったように笑って、鯨真さんは遠くに目線をなげた。
「・・・それはひみつ」
でもね、確かな声が言う。
「あの時、おれ、すごくうれしかったんだよ。けがしてたおれをさ、ツユキが何の迷いもなく助けてくれてさ」
ひとり言のような言葉は自分に言い聞かせるようだった。「ツユキはいっつもおれを助けてくれる」
「やっぱり雨は苦手だけど」
鯨真さんが俺の方を見た。合わされる目線。頬にオレンジ色の日が射していた。
「ツユキと一緒なら、大丈夫かも」
気付けば雨は止んでいる。
「きれいに晴れたね」
俺が傘をたたんでいる横で、眩しそうに空を見上げる鯨真さん。でもやっぱり、橙に染まった横顔は晴れない。口元は微笑んでいても、にじむさみしさはぬぐいきれていなくて。
そんな鯨真さんを俺は見ていることしかできないのだろうか。纏う暗さを感じているだけでいいのだろうか。
光を受けてそれぞれが違う色に輝く葉を付けた街路樹が目に入った。さっきのぽろぽろと音を奏でるような葉の動きを思い出す。
いや、俺にできることもきっとある。そう信じて、俺はカフェをやっているのだから。
空を見上げたままの横顔に声をかけた。
「鯨真さん!」
振り向く少しだけびっくりした顔。力んで思ったよりもずっと大きい声が出てしまった。
大きな声はほとんど出さないから、恥ずかしさで熱くなる頬。でも俺はかまわず続けた。
「あの、カフェに戻ったら、一緒に一曲弾きませんか?」
俺の言葉が終わらないうちに、鯨真さんから、え、と声がもれる。
「ツユキがそういうの誘ってくれるの、珍しいね」
「えっと、・・・まぁ、」
痛いところを突かれて、それ以上言えなくなってしまい、結局俯くことしかできない。そんな俺を鯨真さんがじっと見ているのが分かった。
ふふ、と声がして、小さな声がきこえてきた。「ありがとう」
おそるおそる顔をあげれば、鯨真さんの抜けるような笑顔。目にはいつもの強い光が戻って、
跳ねるようにニ、三歩歩いて振り返る。夕日よりも赤い、鮮やかな髪が揺れた。
「じゃさ、いつも通り、俺はギターをひくからさ、曲はツユキが選んでよ!」
うなずいて見せると鯨真さんが笑った。つられて俺も微笑むと、もっと嬉しそうに鯨真さんが笑う。
雨に中断されていた蝉の声が戻ってきて、残りの夏を焦がすような声があたりに満ち始めた。夕日を閉じ込めて、光を増幅させる雫。目に見える景色が自分の色を取り戻して、さらに強く輝く。日差しはまだまだ厳しいけれど、織り込まれたオレンジ色で輪郭がとろけるようにやわらかくなった。
一年に一度だけしか来ない鮮やかな季節。夏の終わり。すべての色がまっすぐ届いて、俺を射るんだ。
眩しすぎて、白く見える地面を跳ねるように歩きながら鯨真さんは言う。
「ねぇ、ツユキ。どんな曲にするの?」
「・・・そうですね」
あなたのために、白鍵を弾むようなアレンジを。
目の前でいたずらをたくらむ子供みたいに鯨真さんが笑った。
「真空でも響くように弾こうよ!」
8月のリアイベにて、冊子にして配布したお話