夕刻ロジック
ノックの音が聞こえた気がした。
顔をあげると、窓から入る光で店内は黄色っぽくも薄暗い。
もう夕暮れか。
今日はカフェはお休みだけど、俺は明日の準備中。
誰か来たのか、何か当たったのかな。さっきの音を不思議に思ってドアに目をやると、鍵のかかったドアノブをがちゃがちゃ鳴らし、今度は激しくノックされる。
「大変、たいへんなんだ!ここをあけてよツユキ!」
焦りが滲んだ声と大きな音に驚いて、拭いていた皿を手に持ったままに
「ど、どうしたんですか?」
ドアを開いた先には鯨真さんらしくない真面目な顔。
うっすらと汗もかいているみたいだ。いつもと違う雰囲気に小さく不安になる。
鯨真さんは俺の姿にほっとした表情をみせて、また目の奥まで真剣に戻した。
「とにかく大変なんだ。今すぐいかないと。どれくらい大変かっていうと、淹れたてのコーヒーをうっかりさましてしまうくらい大変なことなんだ」
「・・・えっ、と・・・?」
そんなコーヒーは美味しくなくなってしまうから大変だけど、とうすぼんやりと思いながらもいきなりのこに困ってしまって首を傾げると、じれた鯨真さんに手首を掴まれた。
とにかく来て。言われるままに階段を駆け上がる。
急かされて出てきたベランダで俺は息をのんだ。
目の前に沈む夕日の周り熟れたような赤で、空をぐるりと見渡すと、どこが境か分からないままに滲む、オレンジ、黄色、紫。
そして少し残った昼間の青空には遠く藍色の空が迫る。
「・・・きれい」
思わず一言こぼれた言葉に鯨真さんは満足げに笑った。間に合ったね。
「鯨真さん、あの、大変なことって」
「うん、これ。早くしないと見逃しちゃうでしょ。時間が経つとさ、変わっちゃうから」
それがいいんだけど、付け足すように呟いてフェンスにもたれて頬杖をついた。
鯨真さんの赤い髪がますます赤く鮮やかになる。
「いつもみてるんだけどさ、急に高い所で見たくなって、一緒にツユキがいたらもっといいなって」
橙色の横顔が声を弾ませた。
ピンクとも紫とも言えない色で照らされた街は、少しだけみたことのない景色になる。
空気にまで色がついたようで、輪郭がとろけてやわらかい。
何があるという訳でもないのに、まだここから動きたくない気分。
二人並んで眺めながら、俺はふと気になって口を開いた。
「そういえばこういう夕方の空に名前があったはずですけど、何て言いましたっけ。鯨真さん、知ってますか?」
鯨真さんは眉を寄せてしばらく考え込んだ後、俺の方を向いた。何か思いついた目。
「ねぇ、ツユキ。たまには名前のないものがあったとしてもいいじゃない。だって俺、あれを毎日見てるけど、毎日色が違うんだよ。名前をつけてひとつのものにまとめてしまうにはもったいないと思わない?」
得意げに笑う顔をみれば考えていることぐらい簡単に分かる。おれいいこと言ったでしょ、とでも思っているんだろう。
本当にこの人は分かりやすい。そんな鯨真さんを胡散臭さげに見やる。
「鯨真さん、本当は知らないんじゃないですか」
「そうかも」
それでも俺の目線にも負けず、いたずらっぽく笑いかえし
「でもさ、それもいいでしょ」
ね、と念を押す鯨真さんに負けて
「そうですね」
俺も小さく笑った。
いつの間にか色が街の向こうに吸い込まれて、空も辺りもほの暗くなっている。
きょとんとしてこっちを見ている鯨真さんと目が合った。
「どうかしましたか?」
「うん。」
返事の後もう一度神妙な顔で頷く。
「うん。ツユキが笑ってるから。
いつもの困った感じの笑い顔じゃなくてさ、本当に、普通に。だから、珍しいなって思って」
鯨真さんに言われて驚いた。知らないうちに、俺、笑ってたのかな。
自分の表情なんて、そんなこと全然気づいてなくて、びっくりして、なんだかとっても恥ずかしくなってしまって、
耳があつい、きっと赤くなってる。
じっと見てくる鯨真さんの目線から逃げるみたいに俺は慌ててそっぽをむいた。
「き、きれいだなって見てただけですけど」
「そうかなぁ」
遠くを見る鯨真さんも笑ってるくせに。盗み見た横顔にふと思う。
きれいなものをみる目を細めた顔って笑った顔にとってもよく似てる。
でもその表情にも、きっと名前なんてないのだろう。あるいはいらないのかも。
気付けばさっきまで白かった月が金色になって、藍色の空にのぼってぽってりと浮かんでいる。
夕日が見せた最後のピンクも街の向こうに静かに消えて、ほら、もう夜があんなにも近い。