メランコリック・アイロニー


ベルを鳴らして店に入ると
「あぁ、よかった。どこにもいないものだから、」
カウンターのすみ、おれのいつもの席に座るスーツの男。
そこにいるはずのない、最もいてほしくない男がいた。
退路を断つ忌々しい声に視界の彩度が一瞬にしておちる。
ゆっくりと近づくおれに輝血はにっこりと笑いかけた。
「ここにも来ないかと思ったよ、鯨真」

昼を少しすぎたカフェには人はまばらでゆったりとした雰囲気が流れていた。
カウンターでコーヒーを淹れているツユキの姿にこちらを気にしていないことを確認する。
立ったままで表情のないおれをみて、輝血は品の良さがにじむ手つきで口元にカップを持っていき、困ったように笑った。
「随分と探したんだよ」
「…‥嘘だ」
そんなの嘘だ。
別に探してなどいないくせに。
ここにいればこの時間におれが来ることさえ、知っていたくせに、この人は。
そうしてわざとらしくおれの定位置を占領して何食わぬ顔で嘘を吐く。
輝血がツユキの店にいる、それを目の当たりにするだけで呼吸が薄くなって指先が震えた。情報屋の輝血にはいずれ知られるだろうとは分かっていた。
それでも隠していたのに、注意深く。
こんなに早く、ばれてしまったなんて。
輝血から目線をそらさないでツユキに背を向けた。
自分から表情が削ぎ落ちるのが分かる。
「今日はどうしてここに?」
「まぁ、座りなさい」
底冷えするようなおれの口調を気にすることもない。
席を勧める優雅な手を無視して俺は繰り返した。
「どうして?本当の目的は何ですか?」
「コーヒーを飲みに」
「ふざけないで」
愛おしいものを見るかのように目を細めて、輝血はため息をおとした。
「君には嘘はつけない」
別に隠す気もないくせに。

「実は鯨真に好きな人ができたって話を聞いたからね。どんな可愛い子かと思って、」
みにきた。
呟いた口元には微笑みを浮かべているくせに、目の奥は違う。
肘をついてカウンターごしにツユキを見る目の奥は、獲物を狙う冷え切った色。
「なかなか可愛い顔をしているね。背は小さいが、よく働くし色が白い。髪も綺麗だ」
輝血から表情が消える。
「…‥少し惜しいが、君が仕事をしないのなら、」
輝血がいきなり懐に手を入れた。
鈍く光る黒を目でとらえた瞬間、考えるより速く袖に隠してあるナイフを引き抜く。
輝血の首筋にぴたりとナイフをあててようやく、おれは自分の息が酷く切れていることに気がついた。
心臓も音がするように速い。
満足そうに笑った輝血は、懐から抜いた手の中に何もないことを示した。
ナイフをしまった俺を見て何事もなかったかのようにコーヒーを口に運ぶ。
「分かっているじゃないか」
息め上手く整わない。
それでも輝血から目をそらすことなく告げた。
「依頼の話を聞きます。場所を移してください」
「物分かりがよくて助かるよ」

真後ろで鳴るベルの音が遠い。
表情のないおれを見下ろして輝血は微笑んだ。
「もう駄々をこねてはいけないよ、鯨真。仕事をしたくないなんて。困ってしまうじゃないか」
少しかがんで耳に吹き込むように囁く声。
「お前の大切なものを壊さなくてはいけないから」
そうしておれの手を取ると恭しささえ感じられる仕草で甲に口づけた。
「汚れたお前の手があの子を抱きしめることはできないが、少なくとも生かしておくためには、」

この手はナイフを握らないと。

あぁ、この男を殺してしまえたら。
それができない自分を呪った。