He is like...
図書館は静かじゃない。本から聞こえてくるささめき。この小さな声は僕の中から聞えている。でも、僕には、棚にしまわれた本たちが、それぞれに呟いているように聞こえるのだ。
本を読むのが好きだ。本を選び、背表紙をたどる指が痺れるくらい、本を読むのが好きだ。僕をこんな気持ちにさせるのは、これから先も、そう簡単には見つからない。
滑り込みで原稿を提出したぼくは、何よりも先に図書館に向かった。脱稿するまで我慢していた本がやっと読めるのだ。次の締め切りまでは余裕がある。
あの十二冊のシリーズ本は読み終えることができるだろうか。いや、あの緻密な文章で書かれた冒険記もじっくりと読みたい。絨毯の毛の柔らかさを感じながら、本棚の間を縫うように歩く。
目につく本を棚から抜いては、また戻した。読みたい本がありすぎる。悩ましい。幸せな悩み。気持ちさえあれば、僕はいくらでも読むことができる。
でもそれと同時に、生きている間にこと図書館にあるすべての本さえ読めないことを思うと、少し、寂しく思う。
僕がこの図書館の館長になったのは、もう随分前の冬だった。最後の親類だった祖父が亡くなると、丘の上にある大きな屋敷と、併設している私立図書館は僕ひとりに任されることになった。
祖父の死はあまりにあっけなく、そして思っていたよりもずっと早かった。ショックがあまりに大きかったせいで、僕はただ呆然としたまま涙を流す機会を失った。
図書館は無期限で休館した。膨大な蔵書をほこる図書館は一人残された僕には管理することができなかったのだ。そして、現実から目を背けるようにして、図書館に篭り本を読み続けた。
本を読むのは好きだった。だが、その時は、ただ、生きるための義務のように読んだ。食べることも寝ることも十分にしないまま、ただひたすらにページをめくり続けた。
そうでもしないと悲しみに押し流されてしまいそうだったのだ。大海の中、目の前にある木の端にやっとつかまっているように、僕は目の前にあった本にすがることしかできなかったのだ。
読みながらも頭の隅では、考えて、考えて、考え続けていた。今までのこと、これからのこと、ひとりで生きていかなければならないことを。そして僕は倒れた。
元々体が弱いのに加え、無理な生活が応えたのだった。やっとのことでベッドに這い上がり熱にうなされながらでも、俺は考える事をやめることができなかった。そしてふと、思い出したのだ。
幼いころ、このベッドで、読み聞かせをしてくれた父の声を。部屋の明かりが漏れる隙間から覗いた、父の締切前の必死な背中を。感想を話すぼくを見る、祖父の優しい瞳を。
ひとつ思い出すと溢れてくるようでとめどなく、そしてようやく僕は気付いた。僕が本を好きになったのは、父や祖父が僕を愛して、それと同じように本を愛していたからだ。
やっと、僕はからからになるまで泣いて、体力が回復するのを待って図書館を再び開館させた。
読む本はまだ決まらない。読みたい物を全部順番に読めばいいなんて大きな間違い。僕はどれも今すぐに読みたいのだ。本を開いて最初の何行化を眺めて見たり、目次をたどってみたり。
じっくりと時間をかけてやっと手に取ったのは詩集。詩は短いからこそ深く美しい。強烈な言葉の力で、僕の疲れた頭を違う世界に連れて行ってくれる。
僕はいつも座っている、貸出カウンターに座った。今日は休館日だから、誰も来ない。浴びるほど文字を読もうと、わくわくしながら表紙を開いたその時に、上から呆れた声がした。
「悦、やっぱりここか」
見上げるとカウンターの向こうに草介さんが立っている。随分背が高いくせに、似合わないかわいいエプロンをしていた。今日も調律のお仕事はないみたい。
草介さんはピアノの調律師をしながら、(残念ながらこの小さい町では調律の仕事はたくさんあるわけではないので)僕の屋敷に住みながら図書館を手伝ってくれているのだ。
「昨日の昼から何も食べてないぞ。昨日の夜は締切だから声はかけなかったけど、もう書き終わったんだろ。ちゃんと食事はしろよ」
[そうだったっけ]
手元の紙を引きよせ書いて見せた。僕はのめり込みすぎると食べることをつい、忘れてしまう。ちゃんとお腹は空くのだけれど、本を読んだり、文章を書いたりしていると、ついそういうことを忘れてしまうのだ。
「とにかく昼ごはんだ」
手元の本を取り上げようとする草介さんの手に掴まれる前に、詩集を胸元に抱きしめて、僕は返した。
[でも、僕は今この本を読みたいんだよ]
僕の言葉を読んだ草介さんが深々とため息をつく。草介さんは一度言い出したら聞かないぼくの性格を痛いほどよく理解しているのだ。
実をいうと、僕は草介さんが、大好きなオムライスを用意してくれていることを知っている。そんなの簡単。匂いで分かる。本当は走っていきたいくらい。
だけどそれをしないのは、草介さんを困らせるのが好きだからだ。草介さんだからこそ、駄々をこねてしまう。
眉を寄せた草介さんの頭の中は、今、僕のことでいっぱいだろうか。そんな彼がなんだかとっても愛おしくって、椅子から立つと手を伸ばして、眉間の皺をぐりぐり伸ばした。
「なんだよ」
草介さんが余計に渋い顔をする。それが面白くて、僕は少し笑った。
[本を読むのは好きだけど、草介さんのことも同じくくらい好きだから、言うことを聞いてあげるよ]
手元の紙の余白の部分に書き足した。あげる、と小さく呟いて渋い顔を崩さない草介さんに僕は続けた。
[もちろん草介さんも一緒に食べるよね?]
下から窺うように見上げると、そこでやっと草介さんも笑った。草介さんが僕によくする、しょうがないなというような笑顔。
「そういうと思って、食べるのずっと待ってたんだ」
思わず僕も微笑んでしまう。この不器用な人が、こんなに僕を想ってくれているのが嬉しくて。
本を読むのが好きだ、でも本を読むのと同じくらい、いや、好きという言葉で表しきれないほど、僕は草介さんのことを愛おしく思う。
twitterにて #擬リヴ深夜の2hワークス テーマ「すき」
(2014.04.27)