春に会いたい


 怖かった。もう俺は死ぬのだと思った。
 叫ぶように繰り返した名前は、一切届かなかった。肩を押し返そうとした手は、彼の力に対して全く無力で、抵抗すればするほど、強く首筋に歯が食い込んでいった。
でもおれは暴れるのはやめなかった。食べられたくない。それしか頭になかった。たとえ彼にでも。
 痛みは耐え難いほど強くなっていき、次第に意識が朦朧となっていった。もう、呻き声しかで出なかった。
彼の名前にすがりたくても、名前を呼べない。
 こんな彼は知らなかった。愛したはずの彼が、ただただ恐ろしかった。この人が蜂散さんだとは、とても思えなかった。

 首に貼ったガーゼがずれてしまわないように、ガーゼの上から包帯を巻いた。テーブルの上に置いた鏡で映しているが、やっぱり自分で巻くのは難しい。
腕を動かすたびに傷口が痛み、うまくできない。緩くなってしまうのを何度もやり直して、やっときちんと巻くことができた。
 木でできた救急箱の蓋を閉じる。思いのほか大きな音がして、その音にすらびくついてしまった。
傷口が痛まないよう、小さく息を吐いて、体に入った力を抜く。
 改めて自分の姿を鏡で見た。青ざめた顔の下、強く飛び込んでくる包帯の白が目に痛い。
そこに心臓があるかのように、腫れぼったい熱をもって脈打つ右の首筋に、そっと左手を添えた。
 あの時、優しく髪を梳く感覚に、俺は目を覚ました。暗がりの中、おれの傍らに座った彼のシルエットが見える。
気持ちよさに目を閉じたが、彼は小さな声でぽつりぽつりと女の人の名前を呼んでいた。夢うつつにぼんやりした蜂散さんは、俺をその人と間違えているらしかった。
優しい手つきを、急に辛く感じる。俺はツユキですといって、蜂散さんの手が届かないように、毛布の中に頭まで潜ってしまいたかった。
でも、それをしなかったのは、蜂散さんの声が、手が震えていたからだった。それで蜂散さんが落ち付けるのなら、しばらくの間、俺が我慢すればいいと思った。
 どれくらい時間が経っただろうか、いきなり蜂散さんは俺の体を押さえつけた。驚く時間もなく、彼が俺の首筋に噛みついた。
 その瞬間にもう、蜂散さんは、おれの知らない、モンスターになっていた。恐ろしかった。
あの感覚はもう体験したくない。
 今日のことの予兆かは、分からない。だけど最近の蜂散さんは、どうも気持ちが安定しないようだった。
以前から、カフェのカウンターで寂しそうな目で考え事にふけっていることは時々あった。
でも明らかな不安定さを露わにすることは今までなかったから、この頃のの蜂散さんの姿を受け入れるのには時間がかかった。
いや、まだ受け入れていないかもしれない。彼が、本当に蜂散さんなのか、最近俺は分からなくなってきている。
 蜂散さんは、最近、一日中ベッドで寝ている。時々起きてもぼんやりしていて、寝てしまうと記憶が飛んでいることが多かった。俺は何度、俺の部屋で寝ていることを説明しただろう。
よく夢にうなされている。眠ったまま涙を流していることもあった。
蜂散さんのそんな姿は、見ているだけで心が痛んで、俺は蜂散さんに何も手助けしてあげられないのだと自分の無力さが辛かった。
 そして、それと同じくらい(認めたくないけれど、もしかしたらそれよりもずっと)辛かったのは、そんなときに蜂散さんが呼ぶのが、決まって俺の知らない女の人の名前で、
そのことが息がしづらくなるほどに切なく、俺はひとりで傷ついた。
 それほどその人の名前を呼ぶのなら、その人の所に行ってしまえばいいんだ。そんな、心にもないことを思ったりもした。
蜂散さんにはこうやって寝るところがいくらでもあるだろうってことは、いくら鈍い俺でも薄々感づいてはいるのだ。
 思わず大きく息を吐いてしまって、傷口に強く痛みが走った。暗闇の中の光景がフラッシュバックする。さっきと同じ恐怖が背骨を駆け上がった。
全身が恐ろしさに痺れてしまう前に、ぎゅっと目を瞑って、その光景を頭の隅に追いやった。
 蜂散さんは大丈夫だろうか。ゆっくりと椅子から立ち上がり、寝室のドアノブに手をかける。
自分を落ち着かせるように一呼吸おいて、薄くドアを開けた。
 隙間から漏れた光で、蜂散さんが寝ているのが見えた。落ち着いて寝ることができているだろうか。
心配になり、表情を見に近づきたかったが、体はドアの傍らに立ち尽くしたまま、動かなかった。
 俺は、蜂散さんの整った寝顔を、こっそり眺めるのが好きだった。
たまに蜂散さんは寝たふりをしていて、俺がぼんやり見ていると、急に目を見開いて俺をびっくりさせる。
「うわっ」と驚いた声と同時に、思わず身を引く俺を、蜂散さんは逃がさないように抱きしめて、優しい、でも俺にはちょっと恥ずかしい言葉を囁いてくれるのだ。
あの低い声がたまらなく懐かしい。笑ったときにできる頬の笑いじわを、また触りたい。驚く蜂散さんの声を無視して、俺から強く抱きつきたい。
急に視界が歪んで、涙が零れそうになった。
俺はやっぱり蜂散さんが好きなのだ。あんな思いをした、今でも。
 寝ている蜂散さんが寝返りを打った。ベッドに真っ直ぐ零れる光で、暗がりの中うっすらと顔が見えるようになる。
眉間に皺が寄っているが、それは俺の好きな蜂散さんの寝顔だった。
 確かに、ここに蜂散さんはいるのだ。
 蜂散さんを待とう。ふとした思いが、こころの底に落ちて、冷えて固まった。あの、優しい蜂散さんを俺は待とう。
何度も疑ってしまったけれど、今この姿も蜂散さんで、ただ俺が知らなかっただけなんだ。そして、蜂散さんは来てくれた。
こんなに気持ちが不安定でも、女の人の名前を呼んでいても、俺のことを訪ねてきてくれたんだ。そんな蜂散さんが、とても愛しい。
 口の端をあげて、笑ってみた。目の中には優しい蜂散さんがいる。蜂散さんがいれば、全然俺は大丈夫なんだ。うん、大丈夫。
「大丈夫」
 起こさないように呟いて、溢れそうになった涙なんて、嘘だと思うことにした。



睡蓮さん宅蜂散さんをお借りしました。
睡蓮さんが書いてくださった「夢で会おう」があまりに素敵だったので。
(2014.01.05)