cartamo
雨が降っているからといって、心配することはないの。車が停まればすぐに、傘を差してもらえるから。
ドアが開いたところで、もう一度、コンパクトを開いて唇を見た。顔を左右に傾けて形をチェックし、最後に鏡の中に微笑んでみせる。向こうで私が微笑み返し、紅が一層鮮やかになる。
完璧だわ。今日にふさわしい美しさ。
わざとパチリと音をたてて、コンパクトを閉じた。
車の中から濡れた石畳の上に踏み出した。黒いスーツを着た部下が、私に傘を傾ける。
静かな雨の夜だった。街灯のぼんやりとした白い光が、遠くに丸く見えて、闇の中の家々のおぼろげな輪郭を浮き出させている。
傘をもつ見慣れた部下に、私は話しかけた。
「今日も髪を染めているのね」
私よりもずいぶん上にある、彼の顔に微笑みかけたが、表情は動かなかった。ただ光のない暗い瞳で、傘を握っている。
「困った子ね」
そういいながらも、私は思わず微笑み、彼を愛おしいと感じていた。
手を伸ばせば髪に振れやすいように頭を下げてくれる。柔らかい髪。かわいい、私の犬。
扉の前に立つのに十歩も歩く必要はなかった。車はきちんと、目的の家の前に停められていた。
何の変哲もない家だが、この地下に会合の部屋がある。地上部は住宅街の家のひとつを装っているのだ。
家の扉は三段上った階段の先にあり、扉の両側にはいつものように大きな男が二人立っていた。スーツの布が弾けそうになっていて、体中に筋肉がついているのが一目で分かる。
ここからは見えないけれど、辺りにはこんな男が何十人も見張りをしている。ならず者の集まりだから細心の注意が必要。悪者なのに集まるのも一苦労だわ。
私がドアの前に立つと、男たちは深々と頭を下げた。一歩進み出ると、男たちは両開きのドアを開けた。扉の軋む音と共に、がらんどうの部屋の奥、蝋燭で灯された地下への階段が見えた。
蝋燭で橙色に照らされた階段をゆっくりと降りていくと、反響する靴音を縫ってささめきが聞えてきた。
それまで後ろを歩いていた部下が、私を追い越していく。ドアマンの申し出を丁寧に断って、部下はドアノブに手をかけた。
扉の前で、姿勢を正し、一呼吸おいてから、今が一番幸せだというような微笑を顔に張りつけた。やり方は簡単。だってあながち嘘じゃないもの。
両手をやわらかく重ねて腹の上におき、準備は完了。部下に目配せした。一礼と共にドアが押して開かれる。
部屋の中の視線が一斉に私に注がれた。落ちるざわめきのボリューム。部屋中に敷かれた赤い絨毯の上を歩き出すと、徐々に人々の囁きの声は大きくなり、多くの目線が私に走った。
この瞬間が、なんとも言えない快感なのだ。扇で隠した口元や、仮面の下で私のことを噂し合っている。会場のすべての興味が私に注がれている。
歩いて行くと自然と人垣が割れ、道ができた。その中を私は、黒く美しいドレスを、靴を、今日のための口紅を、そして何より私自身を見せつけるようにしてゆっくりと歩いた。
そして私が過ぎ去ると、各々が口元を隠して私のことを話すのだ。私は思わずにっこりしてしまいそうになるのを押さえて、薄い微笑みを維持した。
大きなシャンデリアの下、大きなテーブルを中心に多くの者がひしめいている。
それぞれに着飾って、パーティーと見紛うような華やかさがあるけれど、残念ながら今日はそんなお遊びじゃないの。中には仮面をして素顔を隠したり、口元を布で隠しているものまでいる。
この美しさの下に押し込められた汚さと猥雑さが、割に私は好きなのだった。
人垣の向こうの壁際に、お気にいりを見つけた。最近見つけた腕利きの香具師。こちらを見ていたようで、私が目をやるとその男は胸に手をあてて一礼した。
私もすこし微笑を大きくして答えてやる。そのやり取りを周囲の者がみて、私と香具師に目線を走らせながら、またお互いにひそひそと話し出す。
この会合で席をもつのはわずかに十人。もちろん私の席もある。それぞれ名のある者たちばかり。
それ以外の者は、会が始まれば、テーブルの周りを囲むように立っていたり、壁にもたれたまま、じっと話を聴くことになる。
自分の席を見つけると、部下が椅子を座りやすいように引いた。優雅にと座り、テーブルを見渡すと、全ての席が埋まっている。私が最後の一人だった。
隣の男が私に声をかけた。
「美しい口紅だね、ビビドリィ」
「そうでしょう。私達にぴったりなの」
紅花は、棘が血を吸い、なお鮮やかになる。
テーブルの上で手を組み、口紅を強調させるように微笑んだ。
「さあ、はじめましょう」
cartamo:紅花(イタリア語)
まひろさん宅のジャハンさんをちょっぴりですがお借りしました。