先の見えないグレーゾーン
足元に落ちるこの黒い影を、ぴりりとめくってみたならば、その下はいったいどうなっているのだろう。
冬が出番を待ち焦がれて、静かについたため息のような、そんな寒さが足元に沈殿していた。なんだか息苦しいと思ったら、無意識に息をつめてしまっていたみたい。
体の力を抜くように、薄く息を吐き出した。手に持ったランプの明かりに、白が解けていく。
長い廊下にひっそりと横たわる夜。青とも黒ともいえない色が、辺りの空気をさらに冷やしていくように思えた。
しっかりと存在する冷気に、うんざりしながら僕はできるだけ縮こまって寝室に向かった。僕は寒いのがとことん苦手なのだ。
寝室への最後の角を曲がると、俯いていた目線の先がふいに明るくなった。一番手前のドアの隙間から、細くオレンジ色の明かりが伸びている。
左胸が重くなったように感じた。ここを使っているということは、また、か。そっとドアを押して中を覗く。
いたのはやっぱり草介さんだった。がらんとした部屋の中でひとり、テラスのある窓の方に椅子を向けて深く煙草をふかしている。
煙たさが肺につっかえて、僕は小さく咳き込んだ。こんなところまで届く煙に、もう、ずいぶんと長いこと草介さんがここにいるのが分かった。部屋に入り、後ろ手にドアを閉じる。
今は使っていないこの部屋に残っているのは、薄暗い照明と取り外せなかった本棚、それに他に行き場のなかった何脚かの椅子くらい。動かない空気は廊下と同じ温度。
骨まで沁みる寒さに身震いした。
窓の外は灰色にけぶっているだろう。雨が降っている。秋の終わりの雨はただしとしとと細く、暗い。音だけでも暖かさを奪っていくような陰気さが、今の僕には怖かった。
ゆっくりと吐き出された煙で、椅子の背ごと後姿が霞んだ。
草介さんはずっと、窓の外を見ている。
こんな夜更けに、外なんて見えないのに、草介さんは時々そうしている。
手元の紙にめいっぱい大きく字を書いた。そしてわざと靴音をさせて歩いていき、草介さんに突き付けた。
[火気厳禁]
いきなりのことに驚いた表情を浮かべるものの、焦点の定まらない目線。見上げてくる瞳はぼんやりとしていて、目の前の僕を映さない。
長い沈黙に、草介さんが潜っていた心の深さを感じて、背筋が冷えた。
気を抜けば力が抜けてしまいそうな恐ろしさを隠すようにして、目の前でばさばさと紙を振った。
うつろだった青い目が、やっと僕をとらえた。草介さんが困ったように笑う。むるにつくった笑いじわが切ない。
「ここは図書館じゃないだろ」
[僕は煙草の煙が嫌い]
すぐに書いて強情に言い張る。
「そうだったな。悪かった」
足元に置いてあった灰皿を拾って渡すと、草介さんは煙草を丁寧につぶして火を消した。
銀色の灰皿に転がるたくさんの短くなった煙草。今日はいちだんと数が多い。
椅子を引っ張ってきて草介さんの正面を陣取った。膝の上でノートにペンをすべらせる。
[喫煙は緩やかな自殺です]
見せられた文字を目で追って、草介さんはゆっくりと頷いた。手元にノートを戻す。
僕は話をするのにとても時間がかかる。口で伝えられないということが、こんなにも、もどかしい。
[肺が真っ黒になって、咳が出ちゃうようになるし、呼吸ができなくなって、]
必死に書く僕を草介さんが柔らかく見つめてくる。
でも、そこに滲む灰色の感情を感じることができないほど僕は鈍くない。ぎゅうと心が苦しくなって、最後の文字が歪にゆがんだ。
[死んじゃうかも]
草介さんは小さく笑って僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「そうだな」
草介さんが俺を愛しそうに見る。頬までするりと下りてきた大きな手を両手で包んだ。指先が本当に冷たい。
死んじゃいたい?
声の出せない口で言うと、草介さんは首をかしげた。
僕は、これが、聞く意味のない質問だと知っている。それに、草介さんの答えもなんとなく分かってしまっていた。
でも、僕は、心のどこかで、想像しているのとは反対の答えが、草介さんから直接聞けるんじゃないかって、あらぬ期待を持ってしまって、
[草介さんは死んじゃいたいの?]
めくったページに小さく書いた。
膝の上で見せるように立てると、草介さんからため息が漏れた。笑みを浮かべた口からなのに、肺の中の重たい空気を吐きだすような深さ。
困ったな、と小さな声で言い、頭を掻いた。口元は笑っていても、目の奥は底が見えないほど暗い。
僕はペンを強く握っているのをばれないようにしながら、草介さんを待った。
でも、僕はすっかり油断していたんだ。今日もきっと草介さんは、笑って隠して心の底にふたをしてしまうんだって。
草介さんはずっと、こうなってしまう理由を教えてくれたことはなかったから。
だから、小さな声で口からこぼれた、暗く、落ち着いた言葉に僕は凍りついた。
「ちょっとだけ、な」
草介さんが、今まで、決して、僕にすらもらさなかった、暗く取り除きがたい感情がどろりと溢れはじめている。
もう、自分一人で閉じ込めることができないほど、心の中で大きくなっていると思うと、じわり、僕の気持ちも溢れそうになる。
思わず草介さんに抱きついた。草介さんの気持ちなのに、僕の方が耐えられない。
涙をこらえた顔が怒ったように引きつるのが自分でも分かった。
[そんなのだめだよ]
殴り書いた字を押し付ける。胸元を押すノートを手に取って、草介さんは眉を下げて笑った。
「そう怒るなよ」
そんなことを言うのなら、草介さん、なんであなたは。
背中に手をまわされて、耳元で囁かれた。ごめんな。
草介さんは僕を強く抱きしめて、顔を見せてくれない。
僕は草介さんのごめんねの意味が分からない。
ただぽつぽつと、暗闇をおちる雨の音が、胸の奥を冷やしていくようだった。
Liberamente November